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新説忠臣蔵と三浦春馬君

ある日、赤穂市史があるなら吉良町史があると思い、本を取り寄せた。そこには、今まで知らなかった忠臣蔵があったのである。新説忠臣蔵は、吉良町史、専門書、雑学を基に書いた。

忠臣蔵の人気の理由の一つに、内匠頭の刃傷の原因が不明であることと思う。原因が不明なので、多くの創作者が、色々な角度で小説を書き、映画をつくることできるのである。
江戸時代の敵討ちは、肉親の敵討ちで、主君の敵討ちというのは、赤穂浪士の一例のみである。逆に言えば、赤穂浪士の行動は敵討ちでないと言えるのではないか。私の新説は「討ち入りは仇討でなく、幕府との闘い。吉良はトカゲのしっぽ斬り。幕府は仇討という美談に矮小化した。大石内蔵助は切腹でなく斬首を望んだ」である。

浅野長矩の勅使饗応役の拝命から、刃傷までのスケジュールを追ってみよう。

2月4日 浅野長矩35才、勅使饗応役を拝命
  24日 吉良義央、京へ出発した
  27日 幕府の答礼として、勅使・院使は京を出発した
  29日 吉良義央、江戸に帰った
3月10日 浅野長矩、伝奏屋敷に入る
  11日 勅使・院使、伝奏屋敷に入る
  12日 勅使・院使、白書院において将軍と対面
  13日 能楽の催しあり。お料理饗応は白書院にて行う
  14日 刃傷 将軍より勅使・院使へのお礼言上は、白書院から黒書院に変更

浅野長矩と吉良上野介が接触したのは、およそ35日である。
吉良による今でいうパワーハラスメントがあったとしても、35日で刃傷に及ぶのかと不審に思うのである。勅使饗応役を拝命の前から、浅野家と吉良家・幕府との間に緊張関係があったと思うのである。

吉良町史で知ったのは、吉良家の家柄である。
それまでは、「吉良家と言えば高家筆頭」で止まっていた。吉良家の本家は、室町幕府の足利将軍家で、分家は今川家(桶狭間の戦いで信長に負けた義元)である。
京で流行った唄に 「足利絶えれば、吉良が将軍になり、吉良絶えれば、今川が将軍になり」がある。足利の血が絶えたら吉良家が将軍になるということである。つまり、吉良家は足利一門の筆頭で、名門中の名門といえる。大河ドラマ「太平記」では討幕を決意した足利尊氏のもとに、いち早く吉良が参じるのである。

吉良家は、赤穂浪士討ち入りで断絶したが、そのまえに一度断絶している。
吉良家は、同じ三河(愛知県東部)の新興勢力・徳川家康に負け、断絶した。あとで、家康に従い、関が原の合戦の功で、吉良義弥(よしみつ)は旗本としてお家を再興した。義弥(よしみつ)は後に高家に採用された。義弥(よしみつ)の孫が義央(よしひさ)である。赤穂では、義央はヨシナカと呼ばれるが、吉良町では、ヨシヒサと呼ばれる。

忠臣蔵のキーワードは喧嘩両成敗だと思う。
忠臣蔵のストーリーを簡単にすると、「松の廊下で刃傷後、浅野は切腹、赤穂藩は取り潰しになったのに、吉良はお構いなしだった。喧嘩両成敗にならなかったので、赤穂浪士は討ち入りをした」である。

戦国大名の今川氏親(義元の父)が作った法は、典型的な喧嘩両成敗法として有名である。
1) 喧嘩に及んだものはその理非を論ずることなく、双方死罪とする。
2) ただし、相手から攻撃されても応戦しなければ理とする。

喧嘩両成敗の法の精神は、罪を同じにするのでなく、喧嘩の抑制にある。
喧嘩両成敗の問題は、喧嘩に応じて負ければ死亡、喧嘩に勝っても両成敗により切腹、喧嘩を避ければ臆病者といわれることである。映画では、吉良は逃げ回り、笑いものにされるが、それは正しい対処である。吉良も刀を抜けば、さらにその場は混乱した。それで、吉良が刀を抜かなかったことを幕府は誉めたのである。

なぜ赤穂浪士が討ち入りの後、吉良家は断絶になったのか。
忠臣蔵では「浅野のみ切腹で、赤穂藩はお取りつぶし、吉良はお咎めなし。討ち入りで上野介は死に、吉良家も断絶になり、喧嘩両成敗が成立した」といわれている。

幕末、桜田門外で水戸浪士の襲撃により、井伊直弼は亡くなった。しかし、幕府は井伊大老の暗殺はなかったことにし、井伊は狼藉者を撃退したが、「後日、病死。」とした。
井伊大老が道端で浪人者に殺されたとあっては、幕府は「武道不覚悟」として井伊家を断絶にしなければいけなかったからである。但し、井伊家は断絶にならなかったが減封(35万石→10万石)になった。

吉良家断絶の理由は、喧嘩両成敗と関係なく、吉良家当主義周(よしちか)が義央を守れず、赤穂浪士の襲撃を撃退できなかったからである。

「薄桜記」の主人公(山本耕史)は堀部安兵衛の友だ。妻の弟に腕を切り落とされた主人公は、義弟をかばう為、浪人に襲われたと幕府に嘘の報告をした。名もしれぬ浪人に負けたということで、お家がお取り潰しになり浪人になった。後で、主人公が義弟に「乱心なら許す。正気なら許さぬ(斬る)」と言い、義弟は「乱心だった」と答え、あやまった。

映画で、内匠頭(中井貴一)を取り調べた役人が気をきかして、「乱心ですな、罪が軽くなりますが」と言うが、内匠頭は「正気です」と答えた。今でも、重大事件が起きると、精神鑑定するのと同じだろうか。

将軍吉宗の時代、第二の松の廊下事件が起きた。水野忠恒(大名)が松の廊下で刃傷をした。
水野家は家康の母の実家のため、乱心ということで家名は保たれた。忠恒の息子は旗本になった。後に大名に復帰する。
浅野は外様大名、吉良は新参の旗本、それに比べ、井伊家は譜代大名、水野家は将軍の親類であり、依怙贔屓(えこひいき)と言われても、仕方がないだろう。

将軍綱吉が亡くなった翌年、浅野家は旗本として再興する。
吉良氏一族の蒔田氏が吉良家に復姓し、高家として再興した。

赤穂浪士の討ち入りで、吉良家側の死亡者は19人である。
映画では立派な武士が次々、斬られていくが、実際は茶坊主・中間の非戦闘員や軽輩の足軽も命を落とした。
本所松坂町公園(吉良邸跡)の12月14日は、義士祭と、「吉良祭り・元禄市」吉良公と家臣の慰霊会が開催される。

尾張津島天王祭

赤穂海浜公園 流下式塩田

三浦春馬君のメッセージ

映画「アイネクライネナハトムジーク」を観て、良い役者だな、これから、三浦春馬を追っかけで、DVDを借りようと思った矢先の悲しい出来事でした。
春馬君は、4年かけて、47都道府県を巡りました。兵庫県では、2019年2月6日赤穂に来てくれました。その旅を本にしたのが、「日本製(ワニブックス)」です。

春馬君のコラムから、一部、抜粋します。

… 時代物は武士を描くものが多いけれど、例えば、この赤穂の塩を江戸に届けるんだという強い想いで、名もなきたくさんの人々が塩づくりに熱意を燃やす、そんな姿を描く作品があったら参加してみたい …

浅野家と幕府の軋轢の原因は、塩が関係していると、私は思っています。春馬君主演の忠臣蔵外伝ができたら良かったのに、と思う日々です。

尾張津島天王祭

赤穂海浜公園 観覧車

尾張津島天王祭

『 日本製 』三浦 春馬
47都道府県47のメイド・イン・ジャパン。三浦春馬が約4年間かけて訪れた47都道府県「日本製」旅。(書籍紹介文より抜粋)

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